← 読み深め

宮沢賢治ってどんな人?──生きているうちに出せた本は、たった二冊だった

なぜ、宮沢賢治の作品は愛され続けるの?▶ YouTubeで見るなぜ、宮沢賢治の作品は愛され続けるの?

『銀河ぎんが鉄道てつどうの夜よる』も『注文ちゅうもんの多おおい料理りょうり店てん』も、いまでは多おおくの人ひとが知しっています。教科書きょうかしょで出会であった方ほうも多おおいと思おもいます。

けれど、宮沢みやざわ賢治けんじ(みやざわけんじ)が生いきていたころ、彼かれは有名ゆうめいな作家さっかではありませんでした。

それなのに、その物語ものがたりは百ひゃく年ねん以上いじょうたった今いまも、私わたしたちのところに届とどいています。どうしてなのでしょうか。賢治けんじの生涯しょうがいをたどってみると、その手てがかりが見みえてきます。

生いきているうちに出だせた本ほんは、たった二に冊さつ

賢治けんじが生いきている間あいだに出だせた本ほんは、たったの二に冊さつでした。詩集ししゅう『春はると修羅しゅら』と、童話どうわ集しゅう『注文ちゅうもんの多おおい料理りょうり店てん』。どちらも1924年ねん(大正たいしょう13年ねん)のことです。

そして『銀河ぎんが鉄道てつどうの夜よる』は、本ほんにすらなっていませんでした。

いま私わたしたちが読よんでいるたくさんの作品さくひんは、賢治けんじが生いきているうちに世よに出でたものではないのです。

では、どうやって私わたしたちのところまで届とどいたのでしょうか。そのひみつは、賢治けんじの家族かぞくにあります。

花巻はなまきに生うまれ、まわりには困こまっている人ひとがいた

賢治けんじは1896年ねん(明治めいじ29年ねん)、岩手いわて県けんの花巻はなまきに生うまれました。

そのころの岩手いわてでは、寒さむさで作物さくもつがうまく育そだたず、食たべるものにも困こまる農家のうかの人ひとたちがいました。

けれど、賢治けんじの家いえは、くらしにゆとりがありました。

自分じぶんは食たべられるのに、まわりには困こまっている人ひとたちがいる。賢治けんじは、そのことをずっと気きにしていたのだと思おもいます。

先生せんせいをやめて、自分じぶんでも畑はたけをたがやした

大人おとなになった賢治けんじは、農のう学校がっこうの先生せんせいになります。

けれど、そのあと学校がっこうをやめてしまいます。 自分じぶんでも畑はたけをたがやしながら、農家のうかの人ひとたちを助たすけようとしたのです。

安定あんていした仕事しごとを手放てばなしてまで、気きになっていたことのほうへ進すすんだことになります。

そんな生いき方かたをめぐって、お父とうさんとは何なん度ども考かんがえがぶつかりました。家いえを飛とび出だしたこともあったそうです。

ぶつかっても、切きれなかった父ちちとのつながり

では、お父とうさんとは仲なかが悪わるかったのかというと、そういうわけでもなさそうです。

たとえば『注文ちゅうもんの多おおい料理りょうり店てん』は、出だしたばかりのころ、なかなか売うれませんでした。 いまではこんなに有名ゆうめいな作品さくひんなのに、です。

そのとき賢治けんじは、お父とうさんからお金かねを借かりて、売うれ残のこった本ほんの一部いちぶを買かい取とりました。

考かんがえの合あわないお父とうさんを、こういうときには頼たよっている。ぶつかることはあっても、家族かぞくのつながりがなくなったわけではなかったのです。

この家族かぞくとのつながりが、あとで賢治けんじの作品さくひんを未来みらいへつなぐことになります。

妹いもうとトシと、みぞれの朝あさ

賢治けんじには、もう一人ひとり、とても大切たいせつな家族かぞくがいました。妹いもうとのトシさんです。

トシさんは、賢治けんじの思おもいを分わかち合あう存在そんざいでした。賢治けんじは、トシさんたち家族かぞくに、自分じぶんの童話どうわを読よんで聞きかせることもあったといいます。

けれど、そのトシさんは病気びょうきになり、24歳さいの若わかさで亡なくなります。

亡なくなる日ひの朝あさ、トシさんは賢治けんじに、外そとに降ふっているみぞれを取とってきてほしいと頼たのみました。熱ねつで弱よわっていたトシさんが、最後さいごに口くちにしたいと思おもったものでした。

賢治けんじはお椀わんを持もって外そとへ出でて、妹いもうとのためにみぞれを取とってきます。その日ひのことを書かいた詩しの一ひとつが、**『永訣えいけつの朝あさ』**です。

賢治けんじはそのあとも、トシさんのこと、命いのちのこと、そしてほんとうの幸しあわせとは何なにかを考かんがえ続つづけました。

『銀河ぎんが鉄道てつどうの夜よる』のジョバンニも、大切たいせつな友ともだちとの別わかれを経験けいけんして、本当ほんとうの幸さいわいとは何なにかを考かんがえていきます。賢治けんじ自身じしんが悩なやみ、考かんがえ続つづけたことが、物語ものがたりの中なかにも重かさなっているのかもしれません。

37歳さい。残のこされたのは、原稿げんこうの山やまだった

そして1933年ねん(昭和しょうわ8年ねん)、賢治けんじは37歳さいで亡なくなります。

たくさんの作品さくひんを、原稿げんこうのまま残のこしてです。『銀河ぎんが鉄道てつどうの夜よる』も、まだ本ほんになっていませんでした。

このままだったら、その原稿げんこうは誰だれにも読よまれずに終おわっていたかもしれません。

けれど、そうはなりませんでした。

清六せいろくさんのトランクが、物語ものがたりを未来みらいへ運はこんだ

賢治けんじには、清六せいろく(せいろく)さんという弟おとうとがいました。

清六せいろくさんは、兄あにが残のこしたたくさんの原稿げんこうを大切たいせつに守まもります。まだ有名ゆうめいでもなく、売うれてもいなかった作品さくひんを、です。

そして今度こんどは、それを世よの中なかへ届とどけようとしました。賢治けんじが亡なくなった次つぎの年とし、清六せいろくさんは兄あにの原稿げんこうを入いれたトランクを持もって、東京とうきょうへ向むかいます。

その中なかには、「雨あめニモマケズ」が書かかれた手帳てちょうもありました。

賢治けんじが亡なくなったあと、その手帳てちょうや原稿げんこうを読よんだ人ひとたちが心こころを動うごかされ、作品さくひんは少すこしずつ世よの中なかへ広ひろがっていきました。

もし清六せいろくさんが原稿げんこうを守まもらなかったら、いまのようにたくさんの作品さくひんを私わたしたちが読よめるようにはならなかったかもしれません。

賢治けんじの物語ものがたりは、家族かぞくのつながりによって未来みらいへ運はこばれたということになります。

考かんがえてみたい問とい

問といかけ ねらい
「賢治けんじさんは、生いきているうちに何なん冊さつ本ほんを出だせたと思おもう?」 驚おどろきから入はいる
「先生せんせいをやめてまで畑はたけをたがやしたのは、どうしてだろう」 行動こうどうの理由りゆうを考かんがえる
「考かんがえの合あわないお父とうさんに、どうしてお金かねを借かりたのかな」 ぶつかることと、つながっていることは別べつだと気きづく
「清六せいろくさんは、どんな気持きもちで原稿げんこうを守まもっていたんだろう」 残のこした人ひとではなく、届とどけた人ひとに目めを向むける
「賢治けんじさんは、自分じぶんの物語ものがたりが百ひゃく年ねん後ごも読よまれると思おもっていたかな」 結果けっかを知しらずに続つづけることを考かんがえる

もっと知しりたい方ほうへ

賢治けんじが暮くらした花巻はなまきには、賢治けんじにまつわる場所ばしょや施設しせつがあります。作品さくひんや生涯しょうがいについて調しらべたいときは、宮沢みやざわ賢治けんじ学会がっかいイーハトーブセンターの公式こうしきサイトが入口いりぐちになります。

→ 宮沢みやざわ賢治けんじ学会がっかいイーハトーブセンター/宮沢みやざわ賢治けんじイーハトーブ館かん

おわりに

賢治けんじは、自分じぶんの作品さくひんが百ひゃく年ねん後ごまで読よまれることを知しらないまま亡なくなりました。

それでも、その物語ものがたりは今いまも私わたしたちのところに届とどいています。愛あいされ続つづけているのは、その中なかに、賢治けんじが本当ほんとうに悩なやんで、悲かなしんで、願ねがったことが残のこっているからなのかもしれません。

賢治けんじが書かいた物語ものがたりだけでなく、賢治けんじの人生じんせいもまた、一ひとつの物語ものがたりのようです。そして、その物語ものがたりを終おわらせなかったのは、賢治けんじのそばにいた人ひとたちでした。

教科書きょうかしょで賢治けんじの作品さくひんに出会であったお子こさんに、書かいた人ひとのことも少すこし話はなしてみてください。物語ものがたりの見みえ方かたが、ほんの少すこし変かわるかもしれません。


この記事きじは、YouTube「おわか文庫ぶんこ」の考察こうさつ動画どうがをもとに書かいています。ミアとハルンの会話かいわで聞ききたい方ほうは、動画どうがのほうもどうぞ。

あわせて読よむ:『銀河ぎんが鉄道てつどうの夜よる』銀河ぎんが鉄道てつどうは、どこへ向むかう列車れっしゃだったのか/『注文ちゅうもんの多おおい料理りょうり店てん』だれが注文ちゅうもんしていたのか/『やまなし』クラムボンとは何なにか

あわせて読みたい