『スイミー』考察③ ちがいを生きる、という決断
▶ YouTubeで見るスイミー|作者・レオ・レオニと重ねて読むと?【考察】スイミーは、赤い魚の群れの中で、たった一匹だけ黒い魚でした。
その「ちがい」を、最後には、なくてはならない力に変えていきます。
なぜ、そんな考え方ができたのでしょうか。 手がかりの一つは、この物語を書いた人、レオ・レオニの人生にあるかもしれません。
この記事の経歴は、Wikipedia「レオ・レオニ」を参照しています。
国と国のあいだを、移り動いた子ども時代

レオ・レオニは1910年、オランダのアムステルダムに生まれました。
子ども時代から、住む国が何度も変わります。仕事の都合で家族はアメリカのフィラデルフィアへ、その後レオひとりはベルギーの祖父母のもとで2年間を過ごし、再びアメリカへ。そして1925年、今度はイタリアのジェノヴァへと移り住みます。
言葉も、文化も、そのたびに変わる生活。 「ここが自分の場所だ」と、簡単には言えない子ども時代だったと想像できます。
ユダヤ人として、国を追われる

レオニの一家は、ユダヤ系の家庭でした。
1939年、イタリア政府がユダヤ人を差別する法律を発表します。レオニはユダヤ人であることを理由に、アメリカへ亡命することになりました。 イタリア国籍だった妻と息子たちはすぐにはビザが下りず、家族が再会できたのは、約1年後のことだったといいます。
自分の力では、どうにもならない理由で、住む国を追われる。そこには、大きな「ちがい」を抱えて生きるという経験があったはずです。
「みんなと同じ」ではいられなかった人生

大人になってからのレオニも、一つの場所にとどまりません。
アメリカで広告代理店のアートディレクターとして成功し、雑誌『フォーチュン』のアートディレクターも長く務めました。その一方で、絵を描くこと、モザイクをつくること、写真を撮ることにも力を注ぎ続けます。
一つの肩書きにおさまらない生き方を、レオニは選び続けました。
電車の中で生まれた、最初の絵本
レオニが初めて絵本をつくったのは、1959年、49歳のときでした。
孫たちを連れて電車に乗っていたとき、騒ぎ出した孫たちを静めようと、手元にあった雑誌の青と黄色の紙をちぎって、とっさに物語を語り始めたのです。これが、最初の絵本『あおくんときいろちゃん』の生まれたきっかけでした。
そして1963年、4冊目の絵本として発表されたのが、『スイミー』でした。
ちがいを消すのではなく、ちがいと生きる

ここまでの人生をたどると、レオニ自身が、「みんなと同じではいられない」立場に、くり返し立たされてきた人だったことが分かります。
国を移り、言葉を変え、ときには国を追われながらも、レオニは「みんなと同じになろう」とはしませんでした。自分にできること――見ること、考えること、形にすること――を、とことん生かして生きた人でした。
スイミーが選んだ道も、同じ形をしています。赤い魚たちのように泳ぐ力では、群れに勝てません。けれど、黒い体だからこそできることがある。スイミーは、ちがいを消そうとせず、ちがいを生かす道を選びました。
この選び方に、レオニ自身の生き方が重なって見えるのは、決して偶然ではないのかもしれません。
決めつけずに、重ねてみる

もちろん、これは一つの読み方にすぎません。『スイミー』という物語そのものは、作者の人生について、何も語ってはいません。
けれど、「ちがいを抱えて生きた人が、ちがいを力に変える物語を書いた」——そう知ったうえでもう一度読むと、スイミーの選んだ道が、少しちがって見えてくるはずです。
考えてみたい問い
| 問い | ねらい |
|---|---|
| レオ・レオニさんは、どんな子ども時代を送ったと思う? | 作者の人生に触れる |
| 「みんなと同じじゃない」って、どんな気持ちがすると思う? | 自分ごととして考える |
| スイミーとレオニさん、似ているところはあるかな? | 作品と作者を重ねて読む |
| あなたが「自分にしかできないこと」だと思うのは、どんなことかな? | 自分自身に引きつけて考える |
この記事は、YouTube「おわか文庫」の考察動画をもとに書いています。あわせて「みんなで生きるって、どういうこと?」、「みんな同じじゃなくていい?」もどうぞ。
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