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『やまなし』五月と十二月、光といのちの対比から読む

やまなし|5月・命が生まれて帰る場所?【考察】▶ YouTubeで見るやまなし|5月・命が生まれて帰る場所?【考察】

『やまなし』は「五月ごがつ」と「十二月じゅうにがつ」、ふたつの場面ばめんでできています。

同おなじ谷川たにがわの、同おなじ底そこの景色けしきです。けれど並なべて読よむと、まるで違ちがう顔かおを見みせてきます。ふたつを比くらべることで、この物語ものがたりがいちばん伝つたえたいものが見みえてきます。


五月ごがつ──光ひかりにあふれた、危険きけんな世界せかい

五月ごがつの場面ばめんは、まぶしさから始はじまります。

波なみから来くる光ひかりの網あみが、底そこの白しろい岩いわの上うえでゆらゆらのびたりちぢんだりしました。

泡あわが流ながれ、蟹かにの子こどもたちは「かぷかぷ」「ぷくぷく」と笑わらい合あっています。水みずの中なかは、音おとと光ひかりでにぎやかです。

けれど、その明あかるさの中なかに、影かげがすっと差さし込こみます。

魚さかなが一いち匹ひき、頭あたまの上うえを横切よこぎります。そしてすぐあとに、鉄砲弾てっぽうだまのような青あおいものが、その魚さかなをひとのみにしていきます。かわせみです。お父とうさん蟹かには、こう言いうだけです。

鳥とりだよ。かわせみだよ。

光ひかりがいちばん美うつくしい瞬間しゅんかんに、命いのちが奪うばわれる。 五月ごがつの川かわは、きらきらした世界せかいであると同時どうじに、いつ何なにが起おきてもおかしくない世界せかいでもあります。美うつくしさと危あやうさが、同おなじ場所ばしょに同居どうきょしているのです。


十二月じゅうにがつ──静しずかな月明つきあかりの中なかで

同おなじ川かわなのに、十二月じゅうにがつはまったく違ちがう空気くうきです。

ラムネの瓶びんの月光げっこうがいっぱいに透すきとおり……

光ひかりは太陽たいようではなく、月つきです。音おとも、五月ごがつのにぎやかさとは違ちがって、しんと静しずか。蟹かにの子こどもたちは大おおきくなり、「僕ぼくの泡あわの方ほうが大おおきいよ」というような、たわいのないやり取とりをしています。

そこに、トブンという音おととともに、黒くろくて丸まるいものが天井てんじょうから落おちてきます。お父とうさん蟹かにの反応はんのうが、五月ごがつとはまるで違ちがいます。

心配しんぱいするな。あれはかわせみじゃない、やまなしだ。

同おなじ「黒くろい落下らっか」でも、五月ごがつなら命いのちが奪うばわれる合図あいずでした。十二月じゅうにがつでは、それがおいしい香かおりを放はなつ実みに変かわります。やまなしは沈しずみ、二に日にちほどでおいしいお酒さけになるとお父とうさん蟹かには言いいます。


ふたつを並ならべると見みえてくること

五月ごがつ 十二月じゅうにがつ
光ひかり 太陽たいようの光ひかりの網あみ 月つきの光ひかり
音おと にぎやか(かぷかぷ・ぷくぷく) 静しずか
落おちてくるもの かわせみ(命いのちが奪うばわれる) やまなし(実みのりが訪おとずれる)
蟹かにの子こども 幼おさなく、こわがっている 成長せいちょうし、落おち着ついている

五月ごがつは命いのちが奪うばわれる場面ばめん、十二月じゅうにがつは実みのりがもたらされる場面ばめん。正せい反対はんたいのようでいて、どちらも「何なにかが天井てんじょうから落おちてくる」という、同おなじ形かたちをしています。

賢治けんじは、死しと実みのりを、あえて同おなじ構図こうずで描えがいたとも読よめます。命いのちが消きえることと、命いのちが満みちることは、この川かわの中なかでは切きり離はなされていません。同おなじ流ながれの、ふたつの季節きせつにすぎないのです。


考かんがえてみたい問とい

問とい ねらい
五月ごがつと十二月じゅうにがつ、どっちが好すき? どうして? 場面ばめんごとの印象いんしょうの違ちがいに気きづく
かわせみとやまなし、どっちも「落おちてくるもの」だね。何なにが違ちがう? 対比たいひ構造こうぞうへの気きづき
蟹かにの子こどもたちは、五月ごがつと十二月じゅうにがつでどう変かわった? 時間じかんの経過けいか・成長せいちょうを読よむ
同おなじ川かわなのに、雰囲気ふんいきがこんなに違ちがうのはなぜだろう 季節きせつ・光ひかり・音おとの効果こうかを考かんがえる

この記事きじは、YouTube「おわか文庫ぶんこ」の考察こうさつ動画どうが(5月つき編へん・12月つき編へん)をもとに書かいています。あわせて「クラムボンとは何なにか」、「命いのちはめぐる」もどうぞ。

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