読み深め

『100万回生きたねこ』なぜ、ねこは最後に生き返らなかったのか

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『100まんかいきたねこ』のねこは、100まんかいんで、100まんかいきました。

それだけくと、とてもすごいちからったねこにおもえます。けれど、物語ものがたりむと、ねこはながいあいだしあわせそうにはえません。

そしてしろいねこと出会であった最後さいご一生いっしょうで、ねこははじめてき、もうかえりませんでした。

なぜ、100まんかいきたねこは、最後さいごかえらなかったのでしょうか。

なんかえれたのに、ねこはかなかった

ねこには、おうさまや船乗ふなのり、手品てじな使づかいなど、たくさんのぬしがいました。ぬしたちは、ねこがぬたびにきます。

けれど、ねこはいちきません。自分じぶんぬことも、ぬしかなしむことも、ねこにとってはおおきな出来事できごとではなかったようです。

ねこがいちばんきだったのは、自分じぶんでした。自分じぶん以外いがいのだれかを大切たいせつにすることがなかったから、うしなうことのかなしさもらなかったのかもしれません。

なんでもやりなおせる」人生じんせい

ねこはんでも、またべつのねことしてまれわります。

だから、ねこにとってひとつひとつの人生じんせいは、わってしまったらかえしがつかないものではありませんでした。なんでもつぎがあるなら、いまこのときを大切たいせつにする必要ひつようも、あまりかんじなかったのかもしれません。

なんきられることは、自由じゆうたのしいことにもえます。けれど、うしなうものがなければ、こころから大切たいせつにしたいものもまれにくいのかもしれません。

しろいねこは、ねこをえようとしない

野良のらねこになったねこは、しろいねこに出会であいます。ねこは、自分じぶんが100まんかいきたことを自慢じまんします。

けれどしろいねこは、ねこをほめたり、おどろいたりしません。ただ「そう」とうだけです。

しろいねこは、ねこになにかをおしえようとしたわけでも、えようとしたわけでもありません。それでも、ねこはしろいねこと一緒いっしょにいるうちに、はじめて自分じぶん以外いがい相手あいて大切たいせつおもうようになります。

はじめていたとき、ねこは本気ほんききていた

しろいねこがんだとき、ねこははじめてきます。

いたのは、しろいねこが自分じぶんにとって、りかえのつかない大切たいせつ存在そんざいになっていたからです。なんでもかえれるねこにとっても、しろいねことごした時間じかんは、おなじものをもう一度いちどれられる時間じかんではありませんでした。

かなしさをることは、つらいことです。でも、かなしいとおもえるほど大切たいせつにした相手あいてがいたことでもあります。

かえらなかったことは、わりだけを意味いみしない

しろいねこのあと、ねこはしずかにに、もうかえりません。

これは、ねこがなにかをうしなってわったというだけではないのかもしれません。100まんかい人生じんせいでは、自分じぶんだけのためにきていたねこが、最後さいご一生いっしょうでは、だれかと一緒いっしょきました。

なんもやりなおせる人生じんせいよりも、たったいちでも、本気ほんききになり、本気ほんきかなしむ人生じんせい。そのいちがあったから、ねこはもうかえ必要ひつようがなかった、とむこともできます。

かんがえてみたい

かんがえるがかり
ねこは、なぜ100まんかいかえれたのだろう? ねこがなに大切たいせつにしていたかをかんがえる
しろいねこは、どうしてねこをえられたのだろう? しろいねこがしたこと、しなかったことに注目ちゅうもくする
ねこがはじめていたのは、どんな気持きもちからだろう? かなかった以前いぜんのねことくらべる
ねこがかえらなかったラストを、どうおもう? わり」と「本当ほんとうきること」をかんがえる

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